**教は神への絶望から生まれた   2015.5/27


・考え事にもどる

   

 単なる想像だが、宗教を持たない民族はほとんど無いだろう。

 病気や天災やその他諸々の災いが降りかかりませんように、と無心に祈るのは自然な心の動きだ。もしかしたら、犬や猫も、あるいはミミズやウミウシたちも祈っているかも知れない。

 やがて祈る対象を人格化するのも自然の流れだ。近頃では軍艦を人格化してゲームをするという宗教もあるそうだ。

 ひとたび「神」が成立すると、災いを避けるという消極的な祈りだけでなく、良い事が起きますようにという厚かましいお願いまでするようになった。

 それが本来の宗教のあり方だと思う。



 ところが時代が進んで、ヒトの悩みも複雑化してくると、「いくら真剣に祈っても、どうやら神様は何にもしてくれない」との理解が深まってきた。

 神は何もしてくれない、という考えは、おそらくそんなに珍しいモノではなかったはずだが、これを教義にまで高めた人がいる。ナザレのイエスさんだ。或いはイエスさんはただのお飾りで、教義を作ったのはパウロ君だという説もある。

 神は万能である。すべては神によってあらかじめ定められている。従って、祈ろうが祈るまいが結果が変わる事はない。良い事をしたら天国に行けるという考えは、ヒトの行いが神の決定に影響を及ぼすという意味で、神の万能を否定する事だから、認められない。

 じゃあ、どうすれば良いんですか。

 ただただ信じよ。信仰は形ではなく、心の中に有る。

 信仰したら天国に行けるのですか。

 信仰だろうが善行だろうが、してもせんでも一緒やて言うたやろ。

 じゃあ、どうすれば良いんですか。

 ただただ信じよ。



 水掛け論ですね。う〜ん。なにもしてくれないけれども、とりあえず信仰せよというのは、どうもね。仏教もイスラム教も似たようなモノで。

 私は、原始宗教の方が好きだ。本当に願いが聞いてもらえるかどうかは別として。