知識を軽視するな   2015.5/15


・考え事にもどる

   

 教育や知識に対する敵意というのが、歴史上しばしば見られる。

 近いところでは、ナチスドイツによる焚書、中国の文化大革命があげられる。歴史上ではキリスト教徒によるアレキサンドリア図書館の破壊や、秦時代の焚書坑儒がある。

 最近は、イスラム原理主義による教育の否定がよくニュースで取り上げられる。

 脱線だが。最近イスラム過激派による文化財の破壊が世界中から非難されているが、歴史的に見ると、キリスト教による異文化の破壊に比べればかわいらしいものだ。



 さて、「ゆとり教育」というのは一体何だったのだろう。善意の失敗か、故意に教育を破壊したのか。善意の失敗にしてはあまりにも間抜けすぎる。故意に教育を破壊しようとする理由があるとも思えない。はてさて。

 理由はともかく、ゆとり教育の特徴は「知識の軽視」だった。「知識の詰め込みでなく、考える力をつける。」とか、「大切なのは知識ではなく知恵だ。」とか、言われた。

 教科書などはペラペラで、さらに挿絵が多いので、「これは絵本か」という気がするくらいだった。

 昨今では、ゆとり教育による教育の荒廃に対する反動から、逆に詰め込みが復活してきたりする。それはそれで困った事で、どうも日本人は極端に走る傾向があるようだ。



 私は知識について、こう考える。

(1) 知識は重要だ。多いほどよい。

(2) 知識は詰め込みでは得られない。少なくとも、能率が悪い。



 まず、「(1) 知識は重要だ。多いほどよい」。

 「知恵」と呼ばれるものは「知識のネットワーク」だ。知識が増えれば、知恵は幾何級数的に拡大する。さらに、ネットワークというのは、「Aという知識とBという知識は、このような関連を持つ」という知識そのものだ。

 要するに、「知恵」とは「知識の集合体」の別名に過ぎない。よく言う、「生きる知恵」「おばあちゃんの知恵」などを「知識」に置き換えてみれば分かる。



 次に、「(2) 詰め込みは能率が悪い」。

 これは電話帳を丸暗記することを考えれば分かる。ところが、英語の勉強で、単語帳をAから順に覚えようとしたりする。

 数学や理科の公式を暗記する事は極めて重要だが、公式を詰め込みで丸暗記するのは難しい。


 暗記のコツは、「関連事項をできるだけ多くする」ことだ。

 例えば、人の名前を覚えるのは難しい。覚えようとするなら、「名字だけでなくフルネームで」「顔の特徴や、出会ったときに着ていた服」「出会ったときの状況」「誰と一緒にいたか」など、可能な限り雑多な事を一緒に覚える事だ。

 英単語を覚えるなら、単語だけでなく例文で覚える。

 公式を覚えるなら、その公式を使った極簡単な問題を2,3問解いてみる。できれば問題自体を自分で作ると、記憶が何倍にも濃くなる。

 そして、究極の関連事項は「理解」だ。「なるほど、そうだったのか。」と腑に落ちれば、二度と忘れる事はない。



 私たちは、旧世代が残してくれた文化の上に新しい文化を築く。

 富士山が高いのは、裾野が広いからだ。ものを知らない人間が高みに至る事はできない。



 ところで、ゆとり教育の時に言われた「考える力」「生きる力」とは、何だろうか。それはまた別の機会に。