江濃の山波累々として重畳たりと雖も人跡を拒まず

 往古この地に熊谷佐波長谷川牧野山本の五家居を構え藤井神社を鎮めて八草村を興したり

 徳川中期明和年代参拾余の軒数在りて住人百四拾名に及ぶ盛時あり 生業は大河内谷(池谷)二後ノ谷(八草川)の全域に亘る

 大垣藩北川筋に当たり村高拾九石九斗五升七合内畑高拾八石弐升五合 此反別弐町六反参畝弐拾八歩 屋敷高壱石九斗参升弐合 此反別壱反六畝参歩の一村落たり

 明治四十二年当時戸口拾五軒百五人住みたり 然るにこの八草の里にも消長無しと謂うに非ず 村人共に星を読み霜を凌ぎて継承せし事参百有余年遂に墳墓の地に惜別せんと志向せり 大正八年ここに意を決し新たなる伸展を念じ村内打ち揃いてこの地を離散せり

 人倫恒に重んずれば故郷の山亦忘れ難く茲に籠渓山友徳寺川上地内の村人協助のもと我等が先祖の遺霊を供養し兼ねて離村の記念としてこの碑を為すに至れり

 昭和五十九年九月吉日