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 Tさんの了解が取れていないので、詳しくは書けないのだが。

 江戸時代は家康の宿敵で、悪者にされていた三成だが、命を捨てて忠義を尽くした人物ということで、明治時代以降、軍隊内では再評価されていた。

 三成公のご母堂の墓を山中に放置してはマズイ、と言うことになったのかも知れない。
 山から降ろされた墓石は、あちこち移動された。

 昭和38年に滋賀県最初の文化財収蔵庫として己高閣が建造されたのを機に、ここに安置され、今に至っている。

 Tさんが子供のころ(戦前)には、墓はまだ山中に有り、そこへ行った事があって、場所をはっきりと憶えておられた。
 墓の跡は、法華寺の裏山の尾根上に有るという。

 尾根に取り付いてすぐの所らしいので、ちょっと行ってみた。

 古橋から法華寺跡へ行く道の脇に、見捨てられたような亭(ちん)がある。
 亭の向かい側が尾根の鼻で、そこから取り付く。

 登り口がちょっと分かりにくいが、はっきりした尾根なので、エイヤッと取り付けば、すぐに道が見つかる。

 この尾根は地元古橋では「栂の尾(トガノオ)」と呼ばれている。「尾」は尾根のことだ。

 因みに、谷をはさんで反対側は「城が尾(ジョガオ)」
 実はヤブコギを覚悟していたのだが、薮はなく、道もはっきりしていた。

 テープが何種類も付いているので、結構登っている人が居るようだ。

 尾根上の一本道で、迷うことはない。
 しかし、行けども行けども、それらしい場所がない。

 結局、1時間ばかり登ってしまった。

 ほぼ尾根の突き当たりまで行って引き返す。
 Tさんの話では、墓から少し登ると、石組みがあるという。

 自然石か、古墳か、何かの構造物かは分からない。しかし、石が数個並んでいるそうだ。

 引き返しながら、この石を探す。Tさんが地図上で示された辺りに石があった。
 そこから少し下ったところに、「ここかな」と思えるような平地があった。

 2段になった平地が道の脇にある、という事だったが、確実にこことは言い切れない。

 雑木が生えてしまっているので、分かりにくい。いや、こちらかな、と思える場所が何カ所か有る。

 ともかく、この辺りであることは間違いない。
 加工されたものかと思われる、形の整った石が有ったので、勝手にここと決める。

 今は木が繁ってしまっているが、木々の隙間から湖北平野が見渡せる、良い墓所だ。

 まずは、今日の目的は果たせた。
 ついでなので、法華寺跡へ寄っていく。

 近年、秀吉と三成の出会いのきっかけ、「三献の茶」を観音寺に奪われ気味なので、新しく標識を立てたようだ。

 三献の茶については、改めて考証してみたい。
 僧兵も擁したという大寺院も、今は長い石段と若干の石垣が残るのみ。

 沢山の坊跡の平地は田んぼにされた。その後、放棄された田んぼに杉や檜が植林されて、殺風景。