4,5,6月の日記に戻る

 グーグルの3D航空写真で、南西から見たもの。

 白っぽい細長い部分が、田んぼや集落だが、谷底でなく、ほぼ山頂付近だ。

 川が流れていて、右下が上流、左上が下流だ。下流側が行き止まりになっているので、普通に川をさかのぼっても、この村には入れない。
 地形図。上の写真と90度ほど向きが違う。左下が上流、右上が下流。

 地図右下の平地(越前町市街、標高120m)から標高差200mほどの山が立ち上がっており、それを乗りこえて3,40mほど下がったところに集落がある。
 断面はこんな感じ。奥行き方向に細長い台地だ。

 単に、浅くてなだらかな谷が埋まって出来ただけ、かも知れない。

 ともかく、奇妙な地形だ。
 福井県道3号線から、悠久ロマンの杜を目指す。

 そば屋さんがあるらしいから、それなりの人の行き交いはあるのだろう。

 目的の山を見上げても、この上に村が有るとは思えない。全くの隠れ里のようだ。
 一応すれ違いが出来る程度の道を登って行く。

 山頂付近のトンネルを抜けるとヒョッコリと村に出る。

 この村に通じる道は、このトンネル(越知隧道)以外には林道しかない。
 低い山でグルリと取り囲まれた平地に、現在2つの集落がある。

 湖になっていないのだから、当然一箇所は切れている。

 しかし、その谷が狭くて急なので、そこには道がない。

 現地にいても、四方が完全に山に囲まれた底に居るような気がする。
 地元の人と話していたら、落ち武者が住み着いて出来た村だという。

 村の案内板をみたら、全戸「佐々木」だ。隣の集落も、ほとんど佐々木と菅原だった。

 佐々木という落ち武者というと、誰だろう。京極とか尼子とか源とかかな。時代にもよるが。
 氏神さんは貴船神社だったが、由来は分からないとのこと。
 隣の集落には廃校跡があった。

 「萩野小学校笈松分校」とある。

 校地がきれいなのは、しっかり管理されているのだろう。
 菅原山という山号の立派なお寺があって、梅の紋なので、さてはと思って、上がらせてもらった。

 菅原道真の孫が建てたのだそうだ。

 このお寺の名字も菅原なので、道真の子孫ということになる。
 さらにさかのぼると、「悠久ロマンの杜」という施設があった。

 かやぶき屋根の家や遊具のある公園、数棟のログハウスなど。

 ここで蕎麦が食えるそうなので、昼食にする。メニューはおろし蕎麦だけだ。700円也。
 暗い玄関から座敷に上がる。

 店番のおばちゃんが畑仕事に行ってしまったので、わし一人なんですわ。

 という坊主頭のオヤジさんが、ちょっと蕎麦を打ってくるので待って下さい、と別棟の蕎麦道場の方へ行ってしまった。
 がらんと開け放った家で、一人、蕎麦を待つ時間。

 オヤジさんが縁側から、「おーい、お客さんやぞ。」と呼んでも、「二人もいらんやろ。」と相手にしない。黙々とクワを振る。
 軽く昼食を取って、午後は越前海岸を南下する予定だ。越前西部の山を横断して、海岸に出なければならない。

 悠久のロマンの杜の突き当たりから林道に入る。

 林道を登り切って峠に出ると、眼下に越前市や白山が見える。
 峠からは越前西武線という非常に長い林道を走る予定だったが、峠に「武周ヶ池」という案内看板があった。

 山中の池には目がないので、ちょっと寄り道する。

 思ったより大きな池で、帰ってから地図を見たら、結構目立っていた。
 地形図を見ると、堰止め湖であることがよく分かる。非常に大規模な土砂崩れだ。

 崩れたところが急斜面、その下が堆積物の台地になっている。

 戦国時代に起きた土砂崩れ以前には、池になっているところには、奥武周という30戸ほどの村が有った。

 今も、水位が下がると石垣が見えるという。
 武周ヶ池まで往復して、峠に戻る。

 ここからはるかに見える日本海までくだらなくてはならない。

 全然見晴らしの良くない、ウネウネとした林道を走る。
 
 ここまで来て、カメラの電池がなくなった。あ~あ。

 この後、越前海岸に降りて、海岸沿いに南下する。越前海岸は海のすぐ側まで山が迫っていて、ガケになっているところが多い。

 では、その崖の上はどうなっているのかというと、案外緩やかな斜面だ。海岸段丘の地形で、標高100mほどの所に平地が有る。

 道が通っていて、所々に集落がある。

 崖の上の道を通って、呼鳥門を上から見たり、海食洞をのぞいたり、面白い経験をしたのだが、写真がない。残念なり。

 海岸段丘ということは、現在の海岸のガケは堆積物のはずだ。実際、呼鳥門の近くにある海食洞に入ってみると、この辺りの地層が円礫岩で出来ていることがわかる。



 あちこち見て回って、高時村に6時頃帰着。丸一日運転していた。ケツが痛い。