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 人は自分の思うように行動できない。考えることさえできない。例えば。

・ 仕事を早めにやっておこうと思うが、締め切り間際まで手をつけられない。
・ ダイエットをしようと思うが、つい甘いものを食べてしまう。
・ いやなことを忘れたいのに、頭にこびりついて離れない。
・ 夜中に目が覚めて、眠ろうと思うほど目が冴えてしまう。
・人前でアガってしまって、深呼吸しようとするのに、息が吸えない。



 詳しくは知らないが、人の行動を支配しているのは、意識は本の一部分で、大部分は無意識に行動しているのだそうだ。

 こういう実験がある。脳波を測定しながら、「どちらかの手を挙げて下さい。」と被験者に言う。被験者はどちらかの手を挙げる。

 そうすると、「手を挙げる動作」よりも「手を挙げる意志決定」の方が後だということが、脳波から読み取れる。

 つまり、「右手を挙げようと思ったから、右手を挙げた」のではなく、「右手を挙げたから、右手を挙げようと思った」という事になる。



 要するに、『意識』は私を支配しているのではない。

 『意識』は単に、私がどのように考え、どのように判断し、どのように行動するかをモニターしている、いわばパソコンのディスプレーのようなものにすぎない。私の本体は『無意識』の方なのだ。



 記憶もそうだ。

 例えば、トラウマという言葉がある。「子供のころ犬にかまれたことがある。犬にかまれたのは、本の小さい頃で、そのことを全く覚えていない。ところが大人になっても、犬を見ただけで足がすくむ。」というようなことだ。

 犬にかまれたことを思い出したから怖い、のではない。無意識は犬にかまれたことをちゃんと覚えているが、それを意識に伝えていないのだ。意識はただ、怖がっている自分を見ている。

 トラウマに限らず、人は「思い出さない記憶」によってほとんどの行動を決定している。



 ある人の「人格」というのは、その人の経験(つまり記憶)と行動様式の集合体だと考えて良さそうだが、そうすると、人格は意識でなくて無意識の方に宿るというべきだろう。



 パソコンのディスプレーがパソコンを支配できないように、意識が無意識を支配することは出来ない。と考えれば、私がダイエットできないのも、仕事を後回しにするのも当たり前だ。

 無意識がいやがっているものを、意識が強制することは出来ない。



 とは言え、「意識」即ち「『私』という実感」としては、「お前はただのディスプレーに過ぎない」と言われると、かなり悔しい。(多分、そんなことは認めない人の方が多いのではないか。)

 たましいの存在さえ信じている人もいる(最近むしろ増えているらしい)のに、意識までただのディスプレー扱いではトホホだ。



 そこで、何とか反乱を企てようというのがこの項の目的だったのだが、長くなったので、本日の読みはここまで。