1.「三献の茶」のお話し
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 姉川の合戦、小谷城の合戦で手柄を立てた豊臣秀吉(当時は「木下藤吉郎」)は長浜城主となり、一躍大名の仲間入りを果たした。



 ある日、秀吉は鷹狩りに出て喉が渇いたので、観音寺に立ち寄って茶を所望した。

 寺の童子が大きい茶碗に、ぬるい茶を八分目ほどたてて持ってきた。

 秀吉はこれを飲んで、「うまい、もう一服」と所望した。

 童子は、今度はもう少し熱い茶を茶碗に半分足らずたててきた。

 秀吉は「さては」と思い、試しにもう一服頼んでみた。

 すると童子は小さい茶碗に熱い茶を点てて持ってきた。

 秀吉はこの童子の気働きに感じ入って、長浜に連れ帰り小姓とした。

 この童子が、後に五奉行の一人となる石田三成である。



 これは江戸時代に発行された絵本(挿絵の多い読み本(小説))である「絵本太閤記」に出てくるお話しだ。即ち、作り事である。今日、「三献の茶」として知られる逸話は、ここから広まった。

 要するに豊臣秀吉の一代記の中の一節だ。

 本やブログなどで「三献の茶」の話が、出典も無しに引用されたり、あたかも史実のように書かれたりしていることが多いが、元はこれなので、まず確認しておこう。

 しかし、この話は絵本太閤記のオリジナルではなく、それより80年ほど前に出版された「武将感状記(砕玉話)」から引いたものと考えられている。

 砕玉話も武将の面白い逸話を集めた本で、歴史的資料と言うよりは娯楽読み物だ。



 なお、秀吉が鷹狩りの途中で立ち寄った寺を、絵本太閤記では「観音寺」としているが、元の砕玉話の方には「ある寺」としていて、観音寺というのは絵本太閤記の創作だ

 ところがこれがはるか後の昭和・平成の世で問題になる。「『三献の茶』の舞台となる『ある寺』の本家争い」につながってくるのだ。



 絵本太閤記にせよ砕玉話にせよ、現代で言えば娯楽小説だ。史実と言うには裏付けが無く、成立年からしても、「三献の茶」の話は創作と考えるのが妥当だ。

 大体、この話自体が、いかにもできすぎていて、作り事臭い



 では、全くの作り事か、と言えば、そうとも限らない。菅原道真と菅山寺の例を見てみよう。



 菅原道真は、「子供のころ余呉の菅山寺で修行した」と伝えられている(菅山寺縁起)。しかし、これは恐らく史実ではない。

 「道真が大臣になってから、荒廃していた大箕寺を再興し、その後この寺を菅山寺と改めた」とも書いてあるので、こちらが本当だろう。

 事実、菅山寺の釣り鐘(重文、鎌倉時代)の銘文には、菅原道真(菅大相國)の名がある。


 つまり、菅原道真と菅山寺の間に関係があったのは確かだが、そこから「子供のころ菅山寺で修行した」という話に置き換わったと考えられる。



 と言うわけで、「三献の茶」には何か元になった逸話や出来事が有ったのではないかと考えても、あながち無理な話ではないだろう。

 以下、徐々に明らかにしていこうと思うので、ご期待願いたい。