2.絵本太閤記と砕玉話
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 本の解説をする前に、それぞれの「三献の茶」の部分をあげておく。

 なお、原本は国立国会図書館のサイト無料で読める。またいくつかの大学では図書館の蔵書のデジタル化を進めていて、ネットから読める物が多くなってきた。便利な時代になったものだ。

 「三献の茶」のページを書くにあたって、実物を手許に置いたのは一部で、ほとんどはこれらのサイトを利用させてもらった。

 ただし、当然だが訳本ではなく、当時の本の写真だから読み難いのは覚悟の上で。

 本好きや資料探索する者には宝の山だから、ぜひ多くの人に利用してもらいたい



 絵本太閤記の「石田三成秀吉に仕ふ」の項

『長浜の城主木下藤吉郎軍務のいとまある日領内を狩りして終日馳あるけるが咽渇しておぼへければ観音寺といへる山寺に入て客殿とおぼしき方の縁側に腰かけて茶の所望したりければ住僧罷り出謹で礼をなし小童に命じ茶を點ぜしむ此童容貌美麗にして神童のごとしやがて炉前に至り大きなる天目に一杯茶をぬるく點て台に据え巾紗をそへて奉る藤吉郎一息に吞みほしきびよしきびよし今一服と乞いぬれば彼童子又點じて奉るに初めよりは少し熱く茶の分量も半ばに足らず藤吉郎此童子の才智を心に感じ試に又一服を所望せるに件の童子此たびは小茶碗の筒型なるにいかにも熱き茶を少しばかり點て奉れば藤吉郎殆どこれに感心し近く招きて姓氏を問ふに童子謹で申けるは小童は江州石田村の産父は農家にて佐五右衛門と申某は佐吉とよび候と答藤吉郎深く此佐吉が容儀才智を愛し住僧に乞ひて長浜に連帰り小姓となして其寵愛並ぶものなし後立身して石田治部少輔三成とて五奉行の一人なり』



 武将感状記(砕玉話)の八巻目の終わりの方

『石田三成ハアル寺ノ童子也秀吉一日放鷹ニ出テ喉乾ク其寺ニ至リテ誰カアル茶ヲ點ジテ来レト所望アリ石田大ナル茶碗ニ七八分ニヌルクタテテ持マイル秀吉之ヲ飲舌ヲ鳴シ気味ヨシ今一服トアレバ又タテテ之捧前ヨリハ少熱クシテ茶碗半ニタラズ秀吉之ヲ飲又試ニ今一服トアル時石田此度ハ小茶碗ニ少シ許ナルホト熱クタテテ出ル秀吉之ヲ飲ミ其気ノハタラキヲ感ジ住持ニコヒ近侍に之ヲ使フ才アリ次第ニ取立テ奉行職ヲ授ラレヌト云ヘリ』



 志士清談にも触れてあるので、その一部を記す。ただし、続武将感状記(志士清談)が国会図書館にそろっていなかったので、「稿本石田三成」より孫引き。

 続武将感状記(志士清談)

『石田治部少輔三成は幼名佐吉其父・・・佐吉を近郷真言寺の兒小姓とす或時秀吉公此寺に参詣佐吉が容貌起居の他に優れたるに依りて住持に請ふて近習の臣とす・・・』





 絵本太閤記は寛政12年(1797年)に出版された読本(よみほん)だ。挿絵が多いので「絵本」とついている。

 豊臣秀吉の生涯を描いたもので、当時大ベストセラーになり、これをまねて「~太閤記」という本が沢山出版された。また、これを元にした、「絵本太功記」という人形浄瑠璃や歌舞伎も大ヒットした。

 社会現象にまでなったので、豊臣秀吉の人気を恐れた徳川幕府は、絵本太閤記を出版禁止とした。

 挿絵は時代考証のしっかりした精緻なもので、評価が高い。



 一方で、物語の内容については、信頼性が低い。有名な例を2点挙げる。

 「秀吉が信長の草履を懐に入れて暖めた」という逸話は絵本太閤記が初出だ。

 しかし、絵本太閤記の30年前(明和2年(1765年))に出版された「酒井空印言行録(仰景録)」に次のような逸話があり、これを参考に創作したと考えられている。

 酒井忠勝(号は空印)は三代将軍家光と四代将軍家綱に仕えた。忠勝は家光が夜な夜な内緒で出かけるのを心配し、密かに警護した。忠勝が家光の草履を懐に入れて暖めていたのに気付いた家光は、内緒で出歩くのをやめたという。

 また、「信長に槍の長さを問われて、上島主水は短い方が良い、秀吉は長い方が良いと答えた。足軽50人ずつで争わせたところ、秀吉の圧勝だった」という話も絵本太閤記が初出だ。

 しかし信長は若い頃、竹槍による戦いから長い槍が有利であることを確信し、長槍隊をつくったという記述が「信長公記」にある。信長公記は信長の家臣の太田牛一が、織田信長に関する記録を書き綴った業務日誌と日記を合わせたような文書で、一級の史料だ。

 要するに、絵本太閤記では、草鞋の話も長槍の話も、他の人がしたことを秀吉がやったこととして描いている

 つまり、絵本太閤記は豊臣秀吉の一代記ではあるが、有ること無いことかなり盛ってあるのだ

 他にも、絵本太閤記が初出で、それ以前には記録がない、あるいは絵本太閤記とは異なった記録が残っている逸話がある。今日では、それらは絵本太閤記の作者(武内確斎)の創作ではないかと考えられている。



 石田三成との関係で言うと、絵本太閤記では「江州石田村の産父は農家にて佐五右衛門と申」と書いて、三成は百姓の出だとしている。

 石田家は、本によっては藤原鎌足の子孫だとも書いてある。それはウソとしても、恐らく有力な土豪と思われる。

 兵農分離以前のことだから、土豪を「農家」というのも間違いでは無いが、書かれたのが江戸時代だから、多分そのつもりで書いたのでは無いだろう。



 今日、我々が豊臣秀吉やその他の登場人物について持っているイメージは、江戸時代の大ベストセラー「絵本太閤記」によって固定化されたものだと思って良い。

 例えば、秀吉の幼名を「日吉丸」と言うのも事実ではないと考えられている。絵本太閤記の創作ではないが、それ以前の俗説が絵本太閤記によってひろめられたものだ。



 絵本太閤記以後に出版された数々の軍記物は、絵本太閤記をベースにしていることも多い。

 「三献の茶」についても、絵本太閤記から引用、孫引き、ひ孫引きされるうちに、拡散したものだ。その内に、出典も分からなくなり、ついには史実と思われるようにもなった。



 我々は、学校教育などで歴史の細かいところまできちんと学ぶ訳ではない。歴史の中の登場人物のイメージが小説によって固定されていることも少なくない。

 例えば、宮本武蔵は吉川英治の作ったイメージだし、明治維新の登場人物は司馬遼太郎によって作られた人物像(例えば坂本龍馬)を、私たちは本物のように思っている。




 では、武将感状記(砕玉話)の方はどうだろう。 

 三献の茶の話は「武将感状記(砕玉話)」(淡庵子編輯)(正徳6年(1716年))に初出する。

 この本は、戦国時代から江戸時代初期の武将について興味深い逸話を列挙した物で、記録と言うよりは読み物と言うべきものだ。全10巻、各巻に10~20程の逸話が羅列してある。単に羅列してあって、それぞれの話に脈絡はない。

 江戸城御文庫(現国立公文書館)の書物奉行であった近藤重蔵(守重)の解説によると、岡山藩の吉田源之丞の家に伝わる古葛籠に、古い物語を書きためた紙片があった。これを整理して熊澤伊大夫(熊澤淡庵)が編集したものが武将感状記(砕玉話)、その後、残った物を南條八郎が整理して出版したのが続武将感状記(志士清談)であるとされる。

 中には幽霊話やホラ話も出てくるので、内容をそのまま鵜呑みには出来ない。

 熊澤淡庵が実在の人物か、また誰がどのようにして古葛籠に物語を書きためたのかは不明。もしかすると、そのこと自体が創作かも知れない。例えば、ホームズ物語は、ホームズの活躍を友人のワトソン博士が記録したものだ、というのと同じように。



 徳川家康の仇敵で、関ヶ原合戦の敗者、石田三成の遺筆や記録などは徹底的に廃棄され、逆に三成を貶める逸話が創作されたりした。

 さて、その時期だが、戦国時代は敵味方に分かれて戦うのは当たり前で、敵将だからと言って貶める風潮は無かった。 秀吉や石田三成、明智光秀などを悪役として作り上げたのは、戦国時代の空気が忘れられ、儒学が浸透してきた江戸中期と考えて良いだろう。



 砕玉話が出版された1716年と言えば江戸時代も中期(将軍吉宗とか大岡越前のころ)であり、関ヶ原合戦から100年以上、三献の茶から140年が経過している。正史ならともかく、逸話的な話が正確に残っているとは考えにくい。

 砕玉話に収録された逸話は全くの創作ではなく、著者(編者)が巷にある逸話を収録したもので、可能ならば調査して裏付けを取ったということもあるだろう。

 従って「砕玉話」の記述を信じて、「三献の茶」をそのまま史実とするのは適切でないが、それに近い逸話が当時語られていた可能性はある



 しかし、当時の石田三成への評価から考えると、この話は「小賢しい策を弄して、秀吉に取り入った、子供のころから陰険な男」という悪口とも理解できる。



  実際、かつては「三献の茶」は「お話し」以上のものではなかった

 この逸話が史実のように言われるようになったのは、石田三成を再評価した明治時代の研究者渡辺世祐の著書「稿本石田三成 (明治40年(1907年))」以降だ。

 渡辺が、「砕玉話や志士清談は他の記事から考えても、随筆にしてはやや信用にたる。 この三成に関する話も信用するべきかもしれない。」と書いたのが広まったのだろう。



 因みに、渡辺世祐は「近江輿地志略」(享保19年(1734年))を根拠に、砕玉話にある三献の茶の「ソノ寺 」とは「古橋村法華寺三珠院 」であるという説をとっている。