7. 法華寺説
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 参考のために、確実ではないが、法華寺説を補強するいくつか推理を付け足しておこう。


【観音寺とは己高山観音寺ではないか】
 武将感状記に「ソノ寺」と書いてあるものを、絵本太閤記では何故「観音寺」としたのかについて、「5.観音寺説の根拠」の項で2つの理由をあげた。

 しかし、ここでもう一つの可能性をあげる。それは「己高山観音寺」だ。

 絵本太閤記には、ただ「観音寺」と書いてある。一般に、これを「大原観音寺」と理解しているが、観音寺と名の付く寺は多い。


 己高山は、当時、一大山岳仏教圏を形成していた。その中に、
・観音寺
・法華寺
・石道寺
・高尾寺
・安楽寺
・鶏足寺
・飯福寺
・松尾寺
・圓満寺の名がある。

 この内、観音寺が中心寺院で、他は末寺乃至別院であるという。

 とすると、絵本太閤記の作者は法華寺を己高山観音寺の一部と理解して、「ソノ寺」を「観音寺」とした可能性がある。


 という観点から絵本太閤記を読み直してみると、「・・・咽渇しておぼへければ観音寺といへる山寺に入て・・・」とある。

 大原観音寺も人里を隔てた山すそにあるが、山中というわけではない。(現在は近在に数戸の民家があり、周辺は水田だ。)

 一方、己高山観音寺も法華寺も己高山中にあり、全くの山寺だ。


 少し強引な気もするが、絵本太閤記の作者が唐突に観音寺の名前を持ち出してきたことを考えると、一考の価値はあると思う。



【寺で学問するのは武士のステータス】
 子弟を寺に預けるのは坊主にするためではない。

 当時は学校は無かったので、教育機関の役目をしていたのは寺院だった。有力な土豪だった石田氏では、三成を出来るだけ格の高い寺で修行させようとしただろう。

 法華寺は格が高く、幸い母親に縁があったので、そのコネで入れたのかも知れない。

 「あ〜ら、うちの佐吉ちゃんたら、法華寺ざあますのよ。」というような具合だ。



【寺で供養してもらうのは武士のステータス】
 武士に限らないが、格の高い寺で供養してもらうのはステータスだった。逆に、身分の高い人を供養できるのは寺のステータスでもある。持ちつ持たれつだ。例えば、法華寺の過去帳には徳川家康の名もある。

 石田氏も秀吉との関係の中で、地位が上がると共に、法華寺との関わりを深めていっただろう。


 法華寺の過去帳には、石田三成、妻、父母、兄の名がある。

 三成の母は早くに亡くなって、夫の石田正継(三成の父)が法華寺に供養塔を建てている。(墓は別の寺にある。)

 他は関ヶ原の合戦の時に亡くなっているので、法華寺で供養するように、誰が手配したのかは分からない。

 生家のある石田村では関ヶ原の合戦の後、敗軍の将との関わりを恐れて、関係のありそうな物をすべて破棄したという。

 そのような雰囲気の中で、一族を供養し続けるという、石田家と法華寺の強いつながりが想像できる。