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ここまで書いたように、現存する文献からさかのぼって推測できる事は、次のとおりだ。 (1) 三献の茶の逸話は、おそらく江戸時代の創作であり、史実ではない。 (2) 三成が秀吉に、どこかの寺でスカウトされた、というのもあやしい。 (3) 三成が幼少の頃、法華寺三珠院で学問をしていたのは、多分史実だろう。 しかし、近頃石田三成が見直されるに従って、三献の茶の逸話が語られることも多くなった。そして、その舞台は観音寺であるとされることが多い。 ここからは、三献の茶について回る、「『その寺』とはどこか」という話題について考える。 三献の茶の「ソノ寺」がどこであるかには2説有る。現滋賀県長浜市木之本町古橋の法華寺と、現滋賀県米原市朝日の観音寺だ。 そもそも、「三献の茶」自体が本当にあった事かどうかも怪しいのに、その舞台がどこだったかを論ずるのも、おかしな事だ。 しかし、どちらがより「それらしい」か、と言えば、すでにのべたように明らかに法華寺だ。 「ソノ寺」を観音寺と特定したのは、「絵本太閤記」の創作だ。もし、絵本太閤記が大ベストセラーにならなければ、観音寺の名前は出てくることさえなかった。 一方で、一級の史料である「近江輿地志略」に、「石田三成は幼少の頃、法華寺三珠院で学んだ」と書いてある。 三献の茶でもてなしたかどうかは別として、寺にいた三成と秀吉が出会ったとすれば、「ソノ寺」は法華寺とする他無い。 さらに、三成と秀吉がどこかの寺で出会った、ということまでも創作かも知れない。 その場合でも、「三成が幼少の頃、法華寺で学んだ」という事実と、「三成が若くして秀吉に召し抱えられて、出世した」、さらに「三成は才智に富み、軍功より政治的手腕で出世した」などから、三献の茶の話が出来上がったとも考えられる。 とは言え、あえて言えばもう一つ、「なぜ、絵本太閤記の作者は『ソノ寺』を『観音寺』としたのか」という疑問を提出することも出来る。 また、今日に至っても、観音寺説を支持する人が少なくないのは何故だろうか。 それを読み解くには、法華寺と観音寺についてもう少し詳しくのべる必要が有るが、これは別項をおこすことにしよう。 |
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