←4.法華寺と観音寺 ・「三献の茶」にもどる 6.観音寺説の無理→ |
|
前節で、石田三成が子供のころ寺で学んだとすると、その寺は法華寺三珠院だろうと書いた。 史料をたどる限り、そういう結論にならざるを得ない。 しかし、今日では絵本太閤記の影響が強く残っていて、一般には「ソノ寺」を観音寺としていることが多い。 また、歴史家の中にも観音寺説をとる人も多い。絵本太閤記の作者も理由があって、三献の茶の舞台を観音寺としたのかもしれない。 何冊かの本に当たってみたところ、次の2つの理由が見つかった。 【距離の問題】 地図を見ると、長浜城から観音寺まで6kmほどだ。一方、長浜城から法華寺までは20kmある。 秀吉が鷹狩りと称して領地の見回りをしていて、三成と出会ったとすると、法華寺では遠すぎるのではないか。 また、姉川の合戦から小谷城の合戦にかけて、秀吉は横山城の城番だったので、その辺りに土地勘がある。 【石田家と観音寺の関係】 観音寺は、横山という低い山をはさんで、三成が生まれたとされる石田村のすぐ近くに有る。 石田家と観音寺は、それ以前から関係が深い。三成の父正継の代も観音寺の檀家だった。息子の三成を観音寺に学問に出していた可能性は高い。 下に、秀吉、三成関係の位置を示す。 |
|
|