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江戸時代には徳川家康の宿敵として貶められていた石田三成を、再評価したのが渡辺世祐だ。 彼は、著書「稿本石田三成」 (明治40年(1907年))において、砕玉話にある三献の茶の逸話は、「史実といっても良いかも知れない」と控えめに書いている。 しかし、それ以後、三献の茶が本当にあった話のように言われるようになってしまって、今に至っている。 さて、渡辺世祐が「史実かも知れない」としたもう一つの根拠は、「近江輿地志略」(享保8年(1723年))だ。 近江輿地志略の第八十九巻古橋村の項に「法華寺」の記述がある。 法華寺 古橋村民家より八町計奥の山にあり。寺中六箇寺有。真言宗。石田治部少輔三成幼少の時、手跡を此寺の三珠院に習うと云ゆへにや、寺中に三成が墓あり。 石田三成は幼少の時、法華寺の三珠院で学んでいたということだ。従って、ここで秀吉と出会ったというのは、あり得る。 三成の墓は現在では見あたらないが、三成の母の墓(供養塔)は今もある。「三成が墓あり」というのは、当時は存在したのか、あるいは「三成の母の墓」の間違いかも知れない。 法華寺の過去帳(法名、死亡年月日などを記載した帳面)には「石田三成」「三成の妻」「三成の父」「三成の母」「三成の兄」の記載がある。すなわち、法華寺ではずっと彼らの供養を続けていたので、墓(供養塔)がかつて存在したとしても不思議ではない。 三成が法華寺三珠院で学んでいたことを示す史料は無い。近江輿地志略の記述は、法華寺の寺伝あるいは古橋村に伝わっていた話を採取したものだろう。 しかし、当時(江戸時代中期)の雰囲気からして、わざわざ三成との関わりを捏造するはずもなく、恐らく事実が伝わったものだ。 「近江輿地志略」(享保8年(1723年))とは 膳所藩士寒川辰清が編纂した地志。全百一巻からなる。 近江の国(滋賀県)に関する地理・歴史を整理したもの。当時史料として明白な物の他、土地に伝わる口伝なども徹底的に採取し、可能な限り裏付けを取っている。 内容は「地域ごとの分類」「川にまつわる分類」「道にまつわる分類」「人物」など、整理されていて分かりやすい。 内容の正確さ、網羅性から第一級の史料である。 大正4年に大日本地誌大系の一部として、五十巻ずつ上下2巻にまとめたものが出版されている。この際、索引も付けられて読みやすい。 なお、大日本地誌大系では「近江国輿地志略」としてある。この書名で引用されることも多い。 |
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